第1部 第1章 安全は”運”ではない──再定義する「いのちを守る技術」その2

アンゼンアンシン

行動は『しくみ』で変わる──レヴィンの法則

では、「”気をつける”ことに頼らない」とは、具体的にどういうことでしょうか。その答えの鍵を握るのが、ドイツ出身の心理学者クルト・レヴィンが提唱した「レヴィンの法則」です。

レヴィンは、「人間の行動(Behavior)は、その人の個人的な特性(Personality)と、その人を取り巻く環境(Environment)の関数である」と考え、これを非常にシンプルな数式で表現しました。

B = f(P, E)

B (Behavior) = 行動

P (Personality) = 個人的な特性(性格、価値観、知識、経験、スキル、意欲、その日の体調など、その人個人に属する要因)

E (Environment) = 環境(物理的な環境、道具、ルール、人間関係、職場の文化、評価制度など、その人を取り巻く外的要因)

この法則が示しているのは、「人の行動は、その人の性格や意欲といった個人的な要因(P)だけで決まるのではなく、その人が置かれている状況や物理的な制約といった環境的要因(E)と相互に影響し合って決まる」という、極めて重要な事実です。

これを現場の安全に当てはめて考えてみましょう。

現場で起きる災害の多くは、何らかの「不安全行動(B)」によって引き起こされます。従来の安全管理は、この不安全行動の原因を、作業員の個人的な特性(P)に求めがちでした。「あの人は経験が浅いから(P)」「彼が不真面目だから(P)」「彼女がうっかりしていたから(P)」。だから対策は、教育や訓練で知識の習得や習熟を求めたり(P)、罰則や口頭注意で意識を高めさせようとしたり(P)と、ひたすら「P(個人的な特性)」に働きかけることに終始します。

もちろん、安全教育や訓練が不要だと言っているわけではありません。知識やスキル(P)は、安全の土台として欠かせないものです。しかし、「P(個人的な特性)」を外部から働きかけて変えることには、大きな困難が伴います。人の性格や長年培われた価値観は、そう簡単には変わりません。どんなに教育しても、忘れることはありますし、意欲には波があります。つまり「P(個人的な特性)」へのアプローチだけでは、効果が限定的で、持続性も低いのです。

そこでレヴィンの法則が教えてくれるのが、もう一つのアプローチ、すなわち、「E(環境)」を変えることの重要性です。

例えば、ここに「つい間食をしてしまう」という行動(B)に悩んでいる人がいるとします。この人に「我慢しろ」「意志を強く持て」と精神論を説くのが、P(個人的な特性)へのアプローチです。しかし、多くの人が経験するように、この方法で成功するのは至難の業です。

一方、E(環境)へのアプローチはこう考えます。

「そもそも、なぜ間食をしてしまうのか?」

その原因が「机の引き出しにお菓子が入っているから」だとすれば、対策はシンプルです。机のお菓子を処分し、そもそも買わないようにする。つまり「間食をしたくても、できない環境」を作るのです。あるいは、お菓子の代わりにナッツやドライフルーツを置く、という「より望ましい行動を取りやすい環境」をデザインすることもできます。

これが、「E(環境)」を変えることで「B(行動)」を変えるという考え方です。人の意志力(P)に頼るのではなく、望ましい行動を自然と誘発するような『しくみ』を環境(E)に組み込むのです。

現場の安全も、まったく同じです。

「高所作業で安全帯を使わない(B)」作業員がいるとします。彼に「ルールを守れ!」と叱責する(Pへのアプローチ)だけでは、監視の目がない場所では、また同じことを繰り返すかもしれません。

E(環境)へのアプローチでは、こう考えます。

「なぜ、彼は安全帯を使わないのか?」

もしかしたら、フックを掛けるための親綱が、作業の動線を著しく妨げる場所にしかないのかもしれません(物理的環境)。あるいは、作業手順書に安全帯の使用が明記されていないのかもしれません(ルール)。もしくは、ベテランの職人が「そんなもの、邪魔なだけだ」と公言している職場文化があるのかもしれません(人間関係・文化)。

これらの「環境(E)」こそが、彼に「安全帯を使わない」という不安全行動(B)を選択させている真の原因です。であるならば、私たちが取り組むべきは、

  • 作業動線を考慮した、合理的な位置に親綱を設置する
  • 作業手順書に、安全帯フックを掛けるタイミングと場所を写真付きで明記する
  • 安全帯の正しい使用方法を率先して示すリーダーを育て、模範的な行動を称賛する文化をつくる

といった、「E(環境)」の改善です。これらは、作業員が特別な意志力や高い意識を持たなくても、ごく自然に、当たり前のように安全行動(B)が取れるようにするための『しくみ』と言い換えることができます。

「P(個人的な特性)」を変えようとするアプローチは、「なぜできないんだ!」という叱責や断罪につながりやすいものです。しかし、「E(環境)」を変えようとするアプローチは、「どうすれば、できるようになるだろう?」という、前向きで創造的な問いを生み出します。この視点の転換こそが、現場の安全を根底から変える第一歩となります。