第1部 第1章 安全は”運”ではない──再定義する「いのちを守る技術」

アンゼンアンシン

「安全」は”気をつける”ことでは守れない

「今日も一日、ご安全に!」

毎朝の朝礼で、私たちはこの言葉を口にしています。現場の入り口には「安全第一」という看板が掲げられ、作業前にはKY(危険予知)活動で潜んでいる危険を洗い出す。私たちは、現場の安全を守るために、毎日真剣に取り組んでいます。ヘルメットをきちんと着用し、安全帯をフックにかける。その一つひとつの動作が、自分の、そして仲間の命を守るための大切な約束事だということを、しっかりと理解しているつもりです。

ところが、現実はどうでしょうか。

あれほど「安全第一」と誓ったにもかかわらず、ヒヤリとする瞬間は後を絶ちません。「これくらい大丈夫だろう」という気の緩み、慣れた作業ゆえの油断、連日の激務による疲労。ほんのわずかな心の隙が、あっという間に重大な事故へとつながってしまう。その怖さを、私たちは身をもって知っています。

厚生労働省が発表する労働災害の統計を見ても、令和6年の建設業における全国の休業4日以上の死傷災害は、13,849件と残念ながらゼロにはほど遠い数字です。多くの災害報告書には、原因として「不安全行動」「安全意識の欠如」といった言葉が並んでいます。そして、その対策として挙げられるのは、決まって「安全教育の徹底」「注意喚起の強化」といった、個人の“意識”に訴えかけるものばかりです。

「もっと気をつけろ」「集中しろ」「緊張感を持て」

私たちは、これまで何度もそう言われ、そして自分たちも後輩や部下にそう指導してきました。しかし、本当にそれだけで、現場から事故をなくすことができるのでしょうか。

結論から言うと、答えは「ノー」です。個人の注意力や意識、いわゆる“気をつける”ことだけに頼る安全管理は、もはや限界に達しています。なぜなら、人間は、そもそも「いつも完璧に気をつけ続ける」ことができるようには作られていないからです。

心理学の研究でも、人間の注意力には限界があることが分かっています。どんなに優秀で、どんなに真面目な人であっても、集中力は長時間続きません。体調に波があるのは当然ですし、プライベートな悩み事で頭がいっぱいの日もあるでしょう。慣れた作業ほど、無意識のうちに手順を省略してしまう「スリップ」や、うっかり忘れてしまう「ラプス」といったヒューマンエラーは、誰にでも起こりうることなのです。

災害報告書に「本人の不注意」と書くのは簡単です。しかし、その一言で片付けてしまっては、何の解決にもなりません。それは、事故の原因を個人の資質に押し付け、「運が悪かった」とあきらめているのと同じです。私たちは、事故が起きたとき、その背後にある「なぜ、その人は不注意にならざるを得なかったのか」「なぜ、不安全な行動を取ってしまう環境があったのか」という、もっと本質的な問いと向き合わなければなりません。

「気をつけろ」という言葉は、時として思考停止のサインでもあります。それを言った側は指導した気になり、言われた側は「分かっている」と反発するか、漠然としたプレッシャーを感じるだけ。具体的な行動の変化には結びつきにくい、空虚なスローガンになってしまいがちです。

もし、安全が個人の意識や心がけだけで守れるものならば、この世から事故はとうの昔になくなっているはずです。真面目で責任感の強い人ほど、事故を起こした際に「自分のせいで…」と深く自分を責めてしまいます。しかし、私たちが本当に見つめ直すべきは、個人ではなく、個人がエラーを起こしてしまうことを想定していなかった「現場のあり方」そのものなのです。

この本では、「”気をつける”ことに頼る安全管理」からの脱却を提案します。安全は、個人の意識や根性、あるいはその日の運によって左右されるものではありません。安全とは、私たちが意図的に設計し、築き上げることができる「技術」なのです。これが、この本を通じて最もお伝えしたい重要なメッセージです。