ヒヤリの原因は「わかっていても、やらない」
「ヘルメットのあご紐、ちゃんと締めてくださいよ!」
「開口部の前で作業するときは、安全帯を使ってくださいって言いましたよね!」
建設現場では、今日もどこかでこんな声が飛びかっているかもしれません。安全教育で繰り返し指導され、現場のルールとしてきちんと明文化され、頭では「やらなければならない」と誰もが理解していること。それなのに、なぜ私たちは安全行動を怠ってしまうのでしょうか。
多くのヒヤリ・ハットや労働災害の報告書を読み返してみると、その原因の多くが「知らなかった」からではなく、
「知っていたが、実行しなかった」
ことに起因しているという事実が浮かび上がってきます。
- 「ほんの数分だから、大丈夫だろう」と、安全帯のフックをかけずに高所作業を始める
- 「いつもやっているから、慣れている」と、機械の安全装置を無効化してしまう
- 「急いでいるから、仕方ない」と、はしごを固定せずに昇降してしまう
- 「誰も見ていないから、いいだろう」と、定められた保護具を着用しない
これらは、決して特別な誰かの話ではありません。経験豊富なベテランの方であっても、真面目な若手の方であっても、ふとした瞬間に陥ってしまう「心の隙」なのです。私たちはこの「心の隙」を、単に「不注意」や「気の緩み」「安全意識の欠如」といった個人の資質の問題として片付けてしまいがちです。しかし、本当にそうなのでしょうか。
「安全第一」と唱えて、個人の意識に訴えかけるだけでは、事故はなくなりません。なぜなら、人間の行動は、意志の力だけで決まるほど単純なものではないからです。
第1章で触れた、社会心理学者クルト・レヴィンが提唱した法則を思い出してみてください。
B = f(P, E) (行動 = 人と環境の関数)
この法則が示している通り、人間の行動(Behavior)は、その人個人の特性(Personality)だけで決まるのではなく、その人を取り巻く環境(Environment)との相互作用によって生まれます。つまり「わかっていても、やらない」という行動は、その人のやる気や意識が低いからという単純な理由ではなく、そうさせてしまう「環境」にこそ、大きな原因が潜んでいます。
例えば、「ヘルメットのあご紐を締めない」という行動の裏には、次のような要因が隠れています。
- (環境要因1)
すぐに外したり着けたりするのが「面倒くさい」。 - (環境要因2)
汗で蒸れて「不快だ」。 - (環境要因3)
周りの誰も締めていないから「自分だけ締めるのが気まずい」。 - (環境要因4)
急いでいて「時間がない」。
このような、安全行動を阻害する様々な「誘発要因」が存在しているのです。これらの誘発要因が、私たちの「まあ、いいか」という気持ちを後押しし、「わかっていても、やらない」という行動へとつながっていきます。
したがって、いのちを守るための第一歩は、自分や他人の「意識」を責めることではありません。行動をコントロールできないのは、意志が弱いからではありません。そうさせてしまう『しくみ』と『環境』が存在するからなのです。
本章では、この「わかっていても、やらない」という人間の特性から目をそらさず、それを乗り越えるための具体的な「技術」を解説します。それは、根性論や精神論に頼るのではなく、行動科学の知見に基づいて、安全行動を阻害する「誘発要因」を一つひとつ潰していく、極めて実践的なアプローチです。自分の行動を、そして仲間の行動を、意志の力ではなく「技術」でコントロールする方法を、一緒に学んでいきましょう。