はじめに
「ハラスメントかもしれない」と感じたとき、私たちの頭の中は、様々な感情や記憶が渦巻いて、混乱しがちです。「あの時の、あの言葉」「あの日の、あの態度」…断片的な出来事が、順序なく頭に浮かんでは、私たちをさらに不安にさせます。
そこで、この章ではまず、具体的な「ケーススタディ」という鏡を使って、あなたの経験や感情を映し出してみることから始めましょう。
これから、職場で起こりがちな、判断に迷う11のケースをご紹介します。これらのケースの中に、あなたの経験とそっくりなものがあるかもしれません。あるいは、全く違うけれど、なぜか心がざわつくケースもあるかもしれません。
大切なのは、それぞれのケースに対して「これはハラスメントだ」「これは違う」と、すぐに正解を出すことではありません。そうではなく、「もし自分がこの状況に置かれたら、どう感じるだろうか?」と、ご自身の心に問いかけながら、ゆっくりと読み進めてみてください。
これは、あなたの感情の「感度」を確かめるための、準備運動のようなものです。さあ、リラックスして、一緒に考えていきましょう。
ケーススタディで考える「これってハラスメント?」
ここでは、多くの人が判断に迷う典型的なケースを、「対面・従来型」と「デジタル時代」の2つに分けて見ていきます。
対面・従来型のケース
まずは、昔から職場でよく見られた、対面でのコミュニケーションを中心としたケースです。
ケース1:親しみを込めて頭をなでられた
あなたが仕事で成果を上げたとき、年上の上司が「よくやったな、えらいぞ」と言いながら、あなたの頭をポンポン、と撫でました。上司の表情は笑顔で、周囲の同僚も、微笑ましいといった雰囲気で見ています。しかし、あなたは、子ども扱いされたような、そして、不意に身体に触れられたことに、強い不快感を覚えました。
【心のざわつきポイント】
これは、行為者の「意図」と、受け手の「感情」がすれ違う、典型的なケースです。上司にしてみれば、それは賞賛と親しみを込めた、100%ポジティブな「スキンシップ」のつもりだったのでしょう。周囲も、それを悪意のある行為だとは捉えていません。その場の空気は、決して悪いものではありませんでした。
しかし、問題は、あなたがどう感じたかです。たとえ相手に悪意がなくても、あなたが「嫌だ」「不快だ」と感じたのであれば、その気持ちは尊重されるべきです。特に、頭を撫でるという行為は、相手を自分より「下」の存在と見なしている、と受け取られる可能性のある、非常にデリケートな行為です。
【考えてみましょう】
⦁ あなたはこの状況を、セクシュアルハラスメント(性的な言動)だと感じますか?それとも、パワーハラスメント(優越的な関係を背景とした言動)だと感じますか?
⦁ もし、頭ではなく、肩をポンと叩かれただけだったら、感じ方は違ったでしょうか?
⦁ 相手が、同性の上司だったら、あるいは、後輩だったら、不快感の度合いは変わりますか?
ケース2:今まで笑って聞いていた下ネタが、急に不快になった
あなたの職場では、特定の男性社員たちが、日常的に下ネタや性的な冗談を言い合っていました。あなたも、これまでは「また言ってるな」と、愛想笑いをしながら聞き流していました。しかし、ある日を境に、その冗談が、急に、耐えられないほど不快で、屈辱的に感じるようになったのです。
【心のざわつきポイント】
このケースの辛いところは、「今までは平気だったじゃないか」と、周りだけでなく、自分自身でさえも、そう思ってしまう点です。そして、「急に不快に感じるようになった自分の方が、おかしいのではないか」と、悩んでしまいます。
しかし、人の感情は、常に一定ではありません。あなたの心境に、何か変化があったのかもしれません。仕事でストレスが溜まっていたり、プライベートで嫌なことがあったりして、心の余裕がなくなっていたのかもしれません。あるいは、あなた自身の価値観が変化し、そうした言動を、人権侵害として、はっきりと認識できるようになったのかもしれません。
理由が何であれ、「今、不快だと感じている」という、その事実が重要です。過去にどうであったかは、関係ありません。セクシュアルハラスメントの類型の一つである「環境型セクハラ」は、性的な言動によって、職場の環境が不快なものとなり、働く上で支障が生じることを指します。まさに、このケースが典型例です。
【考えてみましょう】
⦁ あなたが不快に感じるようになったきっかけは、何だと思いますか?
⦁ 愛想笑いをしていたのは、その場の空気を壊したくなかったからですか?
⦁ もし、あなたが「そういう話、不快です」と伝えたら、彼らはどんな反応をすると思いますか?